明治の三筆を訪ねる

11月も半ばを過ぎ、土曜日のレッスンも残すところ後2回となりました。
早い、早い、せねばならぬことが山積み(><)

こんにちは。土曜日フラワー/ホーム担当の大場です。
芸術の晩秋、今年は明治の三筆の二人の書に会いに行って来ました。
彦根へ
まずは、滋賀県彦根市へ。
ひこにゃん、井伊直弼、井伊直政・・・といえばおわかりでしょうか?

日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)
天保9年8月18日(1838年10月6日)生まれの彦根藩士。明治政府では太政官に勤め、大久保利通(西郷隆盛の盟友、今年のNHK大河ドラマ・西郷どんで、瑛太君が演じている人)に仕え、内閣大書記となったが、大久保利通暗殺後退官して書道に専念。来日していた中国の楊守敬学者のもとで、中国書法の研究をし六朝書道を基礎に独自の書風を確立、多くの弟子を育てた「日本近代書道の父」。
明治24年、清国に遊学し多くの文人と交流、「東海の書聖」と称賛されたといわれている。
因みに養父・日下部三郎衛門は桜田門外で藩主・井伊直弼が暗殺された際、共に殺害された家臣の一人。

そうそう、お酒の「月桂冠」の文字も鳴鶴の字です!

 
彦根・護国神社
石碑・「戊辰従征死者碑」
明治29年 鳴鶴59歳
印刷のような楷書はお手本。
彦根・宗安寺
扁額「日綵月華」
日は楷書、月綵華は隷書
彦根・宗安寺
扁額「淡泊明志」
大正9年、鳴鶴84歳
彦根庚申倶楽部の人達の依頼を受けて揮毫したものといわれている。
亡くなる前年の作。
 
米原・青岸寺
扁額「嶺月破雲」
明治27年 鳴鶴57歳
先祖墓参帰省時に書かれたものと。
米原・青岸寺

扁額「嶺月破雲」同様、57歳帰省時の時。
流れるような行書が美しい。
この軸は非公開で、今回特別に拝見することができました。
同寺には、先の「嶺月破雲」の他数点の扁額が寄贈されています。
彦根・おまけ・
近江鉄道・彦根線
JRではなく、敢えて、近江鉄道に揺られて米原へ。
青岸寺へ向かいます。
 
ICカードは使えません。
懐かしの”切符”で。改札口で駅員さんが改札鋏でカチッと。。。
日下部鳴鶴の菩提寺。
日本名庭百選にも選ばれた枯山水の庭園。
普通石や砂で作られているが、ここは「岩苔」を使っている。珍しい。
滋賀と言えば、ご存知「飛び出し坊や」。
駅前のサイクリング店の軒先にも。ヘルメットしているところがいいね。
彦根へ行った日が丁度ゆるきゃら祭りの日で、城下のキャッスルストリートにはご当地キャラのブースが立ち並び、ゆるきゃらたちもウロウロ。どのキャラも人に囲まれ、埋もれて見えない!
瀬戸市の「せとこま・せとくん」見-っけ!
神陶祖が作った重要文化財の陶製狛犬がモチーフらしいけど、なぜサックス吹いているのか??? だれか知っている人いたら教えて下さーい。
 
佐賀へ
さて、鳴鶴の余韻残ったまま、翌週は佐賀へ。
佐賀と言えば、焼物で有名な伊万里や唐津、お茶、紅茶の産地嬉野、吉野ケ里遺跡に・・・そして、明治の三筆の一人、中村梧竹(なかむら ごちく)生誕の地でもあります。

中林梧竹(なかばやし ごちく)
文政10年4月19日(1827年5月14日)生まれ。
鍋島藩の支藩・小城藩の家臣。
幼いころより書に秀でていて10代で江戸遊学。藩士時代にも神社の鳥居や灯籠に揮毫。明治15年清国へ遊学。17年帰国後は東京に住んで、各地を旅していたと。で、梧竹はアート的味わいの書も多く、独特の書風であるが、鳴鶴と違って弟子を一切取っていない為、広く知れ渡っていないかもしれない。
岡山神社神門銘
明治21年(1888年)、梧竹62歳の時の筆の隷書。
岡山神社・献燈銘
神門同様、梧竹62歳筆。
小城公園内・梧竹退筆塚
「信哉」梧竹87歳揮毫
 
村岡総本舗
小城町にある老舗の小城羊羹屋さんの店内に。
扁額:「天回図画」(隷書)
明治40年代、梧竹80歳代の揮毫。
富士山頂の浅間神社奥宮の前の碑、「鎮国之山」は梧竹の揮毫。
梧竹の玄孫のお宅に寄らせて頂くことができ、拓本された軸を拝見することができました。
梧竹の玄孫さん宅にて、
扁額「誠」
梧竹86歳の時の書
この他にも多々拝見させて頂きました。感激です。
三日月堂(梧竹観音堂)
梧竹が明治41年、82歳のときに建立。
現在の御堂は昭和24年の台風で倒壊したため、昭和32年再建されたものだが、建立当時より規模が縮小されているとのこと。
普段は堂内を見ることはできないが、今回特別に拝観。
観音堂正面入口には、鍋島直大(なべしまなおひろ)の書「三日月堂」の木額。
堂内には梧竹が生涯信仰した観音像、先祖代々・小城藩主・先師の位牌が奉祀されている。 また、隠元禅師の書「観世音菩薩」、梧竹の書「寂滅場中活路通」の木額も。


梧竹の墓は、1kmほど離れた、長栄寺。
東側の河川敷は佐賀バルーンフェスティバルの会場。
佐賀・小城、おまけ
羊羹の老舗・村上総本舗
創業は明治32年。
店舗の隣のレトロな建物は昭和16年に建てられた砂糖蔵。今は資料館として開館している。
外側は砂糖のシャリシャリ感があり、中はやわらかい。独特の食感。

羊羹のルーツは中国の羹(あつもの)、スープとの説。確かに同じ字。なぜ羊羹なのか?は、長くなるので、またいつの日か。
村上総本舗の目の前の須賀神社。急な階段!
いざ、登ってみることにしました!
鳥居をくぐり………登れるかな?
鳥居の篇額も、梧竹です。
後で知りましたが、153段。
最後の十数段がキツかったけど、登ってよかった!
町を一望。見晴らし最高!
息を整えて、旅の安全祈願。
長崎へ
宿が長崎であったため、翌日は大浦天主堂とグラーバー園へ。
グラバー園では花壇の花たちも美しく、冬桜もチラホラ咲いていました。
長崎港に入港していた中国の豪華客船。
動くホテルって感じですね。
長崎は「ボーリング発祥地」って知ってました?
長崎チャンポン発祥の中華料理「四海楼」。
中には、ミュージアムもあるんですよ。
もちろん、チャンポン、食べました!
で、写真撮ったつもりが実物なし(T-T)
メニューですみません。
皿うどんと迷ったのですが、やはり、チャンポンを。
錦糸卵がのっています。
濃厚だけどあっさりしたスープに太麺がよく絡んで、美味しかった。結構なボリュームで満足。
後ろ髪を引かれる思いで………
長崎駅から博多までは、JRのつばめに乗って。
車窓に流れる景色を見ながら、「今度はもっとゆっくり来よう」と思いました。
最後に
さて、明治の三筆・・の残る一名は、「巌谷一六(いわや いちろく)」です。
鳴鶴や梧竹と同時期の人でやはり揚守敬から六朝書法を学んで独自の書法を確立させました。
児童文学者・巌谷小波の父です。
この人のことは、またいつか。
歳時記
11月は霜月。霜が降りる頃だから。
また、22日は24節気のひとつ、小雪(しょうせつ)です。
東京は暖かく、霜も雪もまだまだといった感じですが、急な寒さに備えておきましょう。

お正月のお花のセットの申し込みも始まりましたが、12月13日はお正月の準備を始める正月事始めです。

年末に向けて少しずつ準備をしましょう。

ではまた、お教室で。